保育中の災害
いつどこで起こるかわからない災害、もちろん、保育中に起こる可能性もあります。ほいくisでは、アンケートを実施し過去に経験した保育中の災害についてエピソードを募集しました。たくさんの体験談をいただきましたのでこちらでご紹介します。※原則として回答コメントは原文そのままご紹介しています。
保育中の地震対応エピソード
最大震度7だった2011年の東日本大震災、福岡市を中心とした震度6弱の2005年の福岡西方沖地震、早朝に震度6の揺れを観測した1997年の阪神淡路大震災などを体験した保育者によるエピソードをご紹介します。的確な判断が求められた避難
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:10年以上
ちょうど午睡から目覚める時でしたが、揺れが激しく、園外に出ようか迷ったり、ガラスがあるので子どもを守る場所に困りました。
一度外に避難してもどのタイミングで園に戻ったらいいのか?寒かったので避難しているところへ防寒着をとりに保育士数名が園内に戻ったり、お迎えが遅い家庭への連絡がとれないでいました。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
園のトップがしっかりと判断すること。迷わずに判断すること。情報がない中での避難と帰宅困難
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:10年以上
3月11日は雪がちらほら、地震の後すぐに停電、暖房が使えず、お昼寝が終わるときだったのですぐに服、ジャンパーを着せて毛布をかけておやつを食べさせながら、地震の合間にトイレに行かせた。
お迎えが来ない保護者には各自の携帯で連絡を入れた。だんだん暗くなって情報がないなか、車のTVを見た保護者からの情報が唯一の情報。園から遠い、子供がいる職員から退勤していった。
家に帰る途中も渋滞、海のそばは津波、私のすんでいるところ、園は津波は来ない地域だったが、信号がつかないから車も進まず、コンビニやスーパーは人がいっぱい。普段は10分の距離を1時間半かかって帰宅した。
実家や周辺の家では、反射式ストーブで味噌汁を作っていた。私のすんでいるアパートはプロパンガスだったので、夜から炊き出し、水をためたりした。家族とはアマチュア無線を車につけていたので、それで連絡をとった。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
毎日の保育が終わったら必ず使ったものは片付けて帰る。各クラスとも児童票、出席簿等々書類は同じ場所に置く、ホイッスルを携帯する、ハンカチティッシュはエプロンのポケットに入れておく、荷物は少なくしてリュック通勤にしています。小学校教諭としての体験
小学校教諭/東日本大震災/当時の経験年数:3年以上~5年未満
小学校低学年の子どもたちは、授業が終わり帰る支度をしているところでした
トイレに行っている子も少なくなく、揺れが収まったあとに児童の人数確認をしたときに教室にいない児童をトイレに迎えに行くときは、生きた心地がしませんでした
すべての人々が経験不足だったため、小学校では縦割り登校班での一斉下校をしました
自分のほうは、子ども2人を保育園と幼稚園別々に預けており、保育園では教室の真ん中にフードを被って固まり保育士が覆いかぶさるようにガードしつつも楽しい話をして和ませてくれていました
幼稚園では習い事のワゴン車の中に園児を乗せ、園庭の真ん中に停めいつでも避難できるようにしつつ教諭が安全管理に務めてくれていました
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
私は当日未就学児がいたため先輩教諭に「自分の家族を守りなさい」と言われてすぐに我が子を引き取りに行きました、小さい子どもがいる保育士は、自分の家族を第一に考えてほしいです。年齢的にベテラン保育士が園児を守ります。園長の指示で的確な行動ができた
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:3年以上~5年未満
自分のことは二の次で、家族との連絡は落ち着いてから取り合った。
当時は、園長の指示の元、各職員が子供の対応、保護者への連絡、備蓄庫の対応に、全力を尽くした。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
大きな震災の時は、何が起きてもおかしくは無い。日々の避難訓練をしっかりとし、慌てないことを大切に、指示もできないくらいテンパるので、とりあえず子供を守ることを第1に考えて行動する。職員間の信頼関係も大切にした方が良いと。。。自園が急遽避難場所となりマニュアル通りにいかない
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:10年以上
3.11の時に0歳児クラスだけ分園で、園庭のある園舎に避難しようとしたが、隣の老人ホームの方も避難されたのもあり、行く場所がなくマニュアル通りでなく困った事があった。
保護者の連絡取れない方もいたり、お迎えが徒歩で何時間も歩いた方もいたので、引き取り出来るまで帰れなかった。順番に家族と電話取られるように声掛けあい、食糧確保も少しだけした。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
知識を得る事。防災士の資格取りました。緊急時引き渡しカードに名前のない人のお迎えに困った
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:5年以上~10年未満
東日本大震災を東京都内の認可保育園で0歳児担任で体験しました。当時はパジャマに着替えて寝る、布おむつを使用していました。おやつもクッキーだったため、保育室の中央に園児全員が集まり待機しました。
余震に怯えながら、目の前のドラッグストアから水とパンを職員が買い出しました。備蓄品はもう少し落ち着いてから夕食などに使用しました。
当時は月案などのICTを導入していたのですが、連絡手段は園への電話のみ。職員はガラケーかスマホ、PHSでした。園児の祖父母が迎えに来てくれたりしましたが、保護者からの依頼や緊急時の名簿にもお名前がなく、園内で、まってもらいました。
職員も遠くから通っている職員を優先して返しました(お子様がいるのは園長のみ)が、帰れず園に泊まりました。私も残り1名の園児が担当の子どもの為、引き渡しまで残させていただきました。午前2時だったと思います。0歳児が食べられない非常食だったので、ミルクで過ごしました。ガスは止まってしまいましたが、電気は通っていたため、しのげました。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
命を守ることが第一優先で、無事に保護者に渡す。非常食の味見、アレルギーや0歳児にも適した保存食を食べる。非常用トイレを使って見るなど、体験してみること。どこに何があるのかを把握すること。
予告なしの避難訓練をすること。保育士の家族などに無事を知らせる方法を決めておく。何より子どもたちの安全対策をしっかり行いながらも安心させることです。
計画停電による不安
保育士/東日本大震災・計画停電/当時の経験年数:10年以上
保護者に連絡の上引き渡しの対応
(計画停電時に困ったこととしては)授乳、停電で帰り道が真っ暗、信号機もなし怖かった。余震が続き不安だった
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
季節に応じた備蓄品保育園に寝泊まりして運営
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:10年以上
3、11の地震の際、都内の保育園で帰宅困難になった。電話やメールが通じにくくなり、周りの情報もわからなかった。新園開園11日目で大規模災害のマニュアル作成数秒後に発生したため、やるべきことは整理されていたのですぐに子どもと保育士の様子を把握するため2階に階段を這うように上がった。信じられない大きな建物の揺れと大きな音、机が床を滑る横揺れの中子どもたちを引き寄せた。
地震がおさまった後階下に集合し人数確認、本社に連絡し、無事を伝えた。国から帰宅せず移動を避ける旨の情報をキャッチし、徒歩で帰る事ができる職員を家に帰し、地下鉄利用者は園に泊まる様に指示。子どもたちの引き渡しは21時頃終了した。夕飯は近隣の営業していた居酒屋に食べに行き、朝食はカレーを作って職員と食べた。
全園児の連絡先をメモして持ち歩き、月曜日に備えた。休園を検討したが、運営を強く希望する保護者(高層マンション上階ガラスの片付けのため)の要望に応えて一部保育を行なった。そこから1週間職員と泊まり込み運営した。色々整っておらず、食事代などの個人負担で個人のお金もたくさん使うことになった。自身の子供は受験で大変な時期だった。家庭のことが全くできなかった。親戚は宮城で全て音信不通。夜中、ネットで避難者リストで生存確認を行なった。職員の中には地下鉄の通勤が怖いと辞める人も出た。立ち上げたばかりの保育園の園児も放射能問題で地方や海外に行くため退園が重なり、本当に辛いことが多かった。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
園での防災備蓄品の大切さ。有事の管理体制。職員自身が何処にいても身を守る術を身につけること。子どもを守ること。常に防災危機感を持つこと、個別の備蓄品3日分(個人で必要なもの)食品は園に用意している。園で発生したら慌てて帰らないこと。困難の中食料と安全の確保ができた
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:10年以上
東京は震度5でしたが、私は午睡をしていない年長児と過ごしていたのですが、他の園児は午睡明けでした。事務室へ歩くのにもふらつきやっとたどりつきました。その日のおやつは、ドーナツだったのですが、幸いに揚げ終わっていたため火災の発生は、防げました。
全園児、職員みんなでをホールに集合してしばらく様子を窺っていたのですが、子ども達も各部屋で過ごすことが安心に繋がると思い、部屋に戻りいつも通りにおやつを食べました。
長期戦になるかもと調理師がコンビニに向かい、パンなどを購入してくれたので子どもたちとシーチキンを入れたパンを食べました。近隣の保護者で地震で食器などが割れて怖いので居させて欲しいという保護者の受け入れも行い、最後のお迎えは、夜中の12時近くで子ども全員の引き渡しが終了したので、近隣に住んでいた私は自宅に戻り、明朝園で宿泊した職員に向けておにぎりを作り持っていき、電車が動き始めたために職員は、自宅に戻りました。
誰一人怪我もなく、無事に保護者に引き渡すこともでき、職員もみんな無事に自宅に戻ることもでき、職員の家族も皆さん無事だったことで安心しました。今考えると備蓄品で夕飯を賄えば良かったとは、思いました。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
電車が止まってしまい、保護者もの方も子どもの安否の不安を抱きながら、職場からヒールの靴で足から血を流しながらも歩いて引き取りに来てくれたこと。夜になり引き取りが遅い子どもたちの不安を「大丈夫」と抱きかかえていたことがとても印象に残っています。駅近の職場だったために自宅が遠い職員も多数いて、早々に帰るように伝えたのですが「自宅にたどり着くかどうかわからないし」と残ってくれてとても心強かったです。「皆でみんなを守る」こととやはり普段の避難訓練は、大切だと思いました。
震災翌日以降の預かりが課題に
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:10年以上
通勤時間が30分でも妊婦の母親を守るため夫婦で会社で避難していた子どもの引き渡しが翌日になった
園が団地内にあるため、震災翌日に家の中を片付けたいと登園してくる子がいたが、電車も止まり始め職員の出勤状況などままならない状態だった
自分の家族と連絡とれず確認できた時には我が子が学校で最終の引き取りとなってしまった。高校生の息子は翌日の帰宅に12時間かかり連絡取るまでの時間が家族内で課題となった
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
子どもたちと一緒に泣き出す後輩がいた事が忘れられず職員の不安をなくしておく必要があると感じました。職場でのBCPを周知できている園はよいのですが、現在私の職場では災害時の職員はどうするかという話もできていない状況。前職場は公立、現在私立園という事が大きいと感じています。災害の種類、被災の程度でどう動くか、アレルギー児の対応などその時の職員の力量にかかっている状態が不安です。園長、副園長に提案しても検討課題にはあがらない理由がわからないです。災害が起きている今、人ごとではないと話し合う事ができればよいのですが、話し合う事に慣れていない我が園はどうすればよいか。若い保育士たちに伝えていきたい事はたくさんあるものの会社組織の壁が高いと感じます。
保護者との連絡が取れず大変
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:10年以上
午睡中で、もうそろそろ起きて、午後のおやつを食べる頃合いだった。地震が起き避難訓練を行っていたこともあり、最初は室内の安全な場所で揺れがおさまるのを待ち、外へパジャマのまま避難。3月で寒さもあるため、室内に保育士が上着を取りにいき、備蓄倉庫から毛布をもってきた。
たまたま午後のおやつがおにぎりの提供だったため、安全な園庭の中央でおにぎりを食べ迎えを待った。
保護者や家族とも電話が繋がらず大変だった。保護者の迎えが少しずつきて、園の対応として、小さな子供がいる職員から早めに帰宅をさせてくれた。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
色々な想定(地震、火災、不審者、雷など)の避難訓練を毎月行っていたので、冷静に慌てず避難ができた。訓練は必要。その時のことを踏まえて海なし県だか、現在は、津波の想定も行っている。そのときは、顔が分かる保護者の迎えしかこなかったが、現在は身内の引き渡しカードを作りファイリングしている。
バス降園が正解だったのか
幼稚園教諭/東日本大震災/当時の経験年数:5年以上~10年未満
家と、当時小学生だった子どもたちが心配だったがすぐに帰れなかった。バス通園の子をすぐに帰したが、園バスが津波に巻き込まれたニュースを数日後に見て『バスを出したのは正解だったのか』と悩んだ。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
家庭を優先させてくれる園に転職したいままで積み重ねてきた避難訓練の成果が出た
幼稚園教諭/東日本大震災/当時の経験年数:10年以上
311の時に埼玉県の幼稚園で働いていました。保育後、トイレ掃除をしている時に地震に気付き急いでバス待ちをしていた子ども達のいる部屋へ。
職員が3名いましたが子ども達の声で賑わっていて地震そのものに気付いていない様子でした。地響きのような音がして机が動き出し、地震だと声をあげ子ども達に指示を出したことを覚えています。
避難はスムーズで子ども達も落ち着いて過ごせました。3月だったことで子ども達の避難訓練の経験が活かされました。保育後で残っていた子が全員バス降園の子ども達だったので引き渡しは園長先生とバスの運転手さんが進めてくださいました。
自分も小学校に子どもがいたので幼稚園の安全点検後すぐに迎えに行かせていただきました。いつもなら30分で着く場所に2時間近くかかり、連絡も取れず不安でした。学童の先生が一緒にいてくださったので安心しました。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
とにかく職員同士の連携が重要だと感じました。大人同士が声を掛け合い、臨機応変に動けたことが子ども達を必要以上に不安にさせず過ごせた要因だと思います。大人が落ち着く(本当は焦っていても落ち着いてるふりをする)ことが大切でした。怖さで動けなくなってしまった職員がいましたがその職員の仕事は子ども達を集める目的になること。安全な場所にその職員に行ってもらいそこに動かず子どもといてもらうことも大切な仕事だと感じました。
全職員が動いてしまうのではなく、その時の適材適所につくことが大切だと、非常時も通常時も一貫して感じています。
保育者も帰宅困難者に
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:10年以上
3.11の地震。埼玉県ですが、とても揺れ怖かったです。連絡がつかないままお迎えに来れない方がいた。また私自身電車が止まってしまい帰れなくなるところだった(同僚の先生が車で送ってくれましたが…)
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
避難訓練は大切です。たかが訓練と舐めないで全力で取り組んでください。情報がなく具体的な動きが出来なかった
保育士/東日本大震災・豪雨/当時の経験年数:3年以上~5年未満
東日本大震災の時、預かり保育中でした。また、豪雨の時も預かり保育中で、グランドに水がたまり、避難しました。
東日本大震災の時には、近くに情報を得るものがなく、揺れたことはわかったものの、その他のことはわからず、他の先生に場を任せてテレビを確認にいきました。
大規模なことがわかっても、なお、その時には、具体的な動きが計画されておらず、ひとまず預かりの子どもたちの保護者に電話をしたもののなかなか繋がらず、つながりしだい「なるべく早くお迎えにきてください」というしかなく、その間は、園内のできるだけ安全な場所にいました。
豪雨は、その何年かあとでしたが、その時には、水害の計画が具体的でなかったので、やはり、保護者に電話をして「なるべくはやくお迎えにきてください」ということで引き渡しました。
保育者も子どもたちが全員帰宅しだい急いで帰宅しました。園のある地域が比較的小規模な災害だったので、なんとか助かりましたが、大規模な災害が来ると怖いので、後日職員で話し合いました。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
今職場を変わりましたが、その時の話、また、阪神淡路大震災も職員ではありませんでしたが、関西にいて経験しているので、その経験を話しつつ、非常持ち出し袋、災害用伝言ダイヤルなどの活用も含め、計画するようにしています。あの時、もっと大規模な災害が来ていたら、きっと死亡者が出たと思います。どの団体で、どのように行動するのか、具体的な行動の計画が必要だと思っています。どこにいる職員がどのようにするのか、ということをミーティングなどで普段から確認して、近くの避難所までも交代で歩いていってみたり、通路の変わっていたところなどを報告しあうようにしています。
また、今の職場では乳児もあずかるので、液体ミルクなど、何を備蓄するのか、なにを持ち出しバッグにいれるのか、情報をどこで得るのかなど、新しい情報があるとそのたびにミーティングで話し合うようにしています。
余震が続く中、避難しながらの保育
幼稚園教諭/東日本大震災/当時の経験年数:1年以上~3年未満
幼稚園の送迎バスの中で地震が発生しましたが、乗車中で最初の揺れは気づきませんでした。その後園に戻り、お預かり中の子ども達や園お迎えの子ども達と過ごしている際余震が続き、避難訓練同様ダンゴムシのポーズをして身を守る声掛けをし、揺れがおさまってから残っている子ども達は、遊戯室に集合しました。
職員は帰れる人は順次帰宅し、帰宅困難な職員が残りました。私は、園の自転車を借りて45分程で帰宅する事が出来ましたが、帰宅途中国道を走っていても信号機やコンビニ等お店の電気も消えゴーストタウン状態に不安になった事を覚えています。
実家から離れて住んでいましたが実家に高齢の祖母がいたので急いで実家に帰り祖母と年の離れた当時中学生の妹の安否を確認しに行きました。父も私が到着して1時間程で帰宅しましたが、母は都内におり、帰宅難民となり翌日帰宅しました。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
私はこの震災後、家から近い地元の職場に転職しました。通勤が遠いと万が一に災害が起きた時、自分の家族の安全なども心配しながら子ども達を守る事に不安を感じたからです。近いが故に何かあると駆り出されたり見回りをする事もありますが、地元で働く事は安心感があります。そして、訓練だと思いながらの適当な避難訓練はなんの役にもたちません。1回ずつしっかり真剣に取り組む事で当時年少の担任でしたが誰1人慌てず騒がず、泣かずに職員の指示を理解して身を守っていました。電気屋水道が復旧せず閉園に
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:10年以上
0歳児を保育していて、お昼寝明けでした。目の前の子どもたちを守るのに必死で大津波警報や自分の家族は高台の学校や自宅にいたので大丈夫となぜか思いました。出張で山陰地方にいた夫から「俺の車が仙台空港で流されている」と言われても「何言ってんだ?」と正直思いました。
帰宅困難の保護者が数名いましたが、子育て中の保育士は先に帰ることになりました。夜の9時停電の中星空を見ながら歩いて帰宅すると子どもたちは義父が迎えに行ってくれていました。
翌日からは保育どころではなく炊き出し支援等の業務にあたりました。「米なんか運ばずに子どもを観ろ!」と言う保護者もいましたが、被災した園は危険箇所もあり、電気も水道も復旧せず、元々年度末に閉園し、4月に別な場所で開園予定だったのでそのまま閉園になりました。しかし、新たな園も引き渡し前日の被災だったので、6月まで仮園舎で過ごすことになりました。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
保護者の連絡先は必ず確認しています。あの日、お仕事がお休みの保護者がいて14時頃にお子さんが発熱して連絡を入れました。お迎え直後に地震があり、「あの電話がなければ、海沿いの施設でお茶でもしようと思っいました。あの電話がなければ、私は津波に飲まれていたかもしれません」と言われました。以降保護者にはお休みで預けても良いけど、必ず連絡先だけ教えてください。とこの経験を伝えています。また保育士の配置基準について改善の署名を園全体で集めています。実際0歳児3人を1人の保育士が避難させるのは無理です。1歳児も6人を1人で避難させるのは無理です。
保護者と一切連絡がつかないままお迎えを待つ
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:10年以上
当時は幼稚園児の預かりの子と、012歳の保育園の子が保育中。少人数の園だったので、計30人弱だったのではないかと思う。
自身は保育園担任。いつもより子ども達の目覚めがなぜか早く、早めのおやつにしていたところ地震発生。
全員何も持たず園庭へ避難。余震が続き園舎にも戻れない。揺れる度、近所の家のアンテナなどが倒れ落ちてきそう。速報の音が、ひっきりなしに鳴る。ブルーシートを敷いた上に 子ども達がいる。守るので精一杯。
ガラ携帯のテレビも映らず、電話もつながらず、情報がない。しばらくたってから、津波らしき映像が、途切れ途切れで映り始め只事ではないことがわかり始める。1時間半位外にいたのか?夕方になり気温も下がり始め、外にはいられなくなくなってくる。その間、意を決して 子ども達の上着等を取りに行った気もする。
園内の一つの部屋に入ることにする。保護者とは一切連絡は取れないまま。迎えを待つのみ。後に聞いた話で、園長の自宅が近所だったので、クッキーなどのお菓子を取りに行き、食べて待ったとの事。教員のお子様もいたので、最終的には20時?21時?だったようだ。
自身は小学生の子どもがいたので 園内に避難後、先に帰宅することになる。車だったが、カーテレビから地震速報の音が鳴っては車、目の前の電信柱、電線、街路樹 全てが大きく揺れ、大渋滞の大きな橋の上ではいつ崩れるかわからないと、恐怖が襲いかかり運転していても生きた心地がしなかった。とにかく道は混み進まなかった。
携帯はつながらないまま。小学校や学童がどうなっているかさえわからない。自身も 無事 帰宅できるかさえわからない位だった。18時過ぎだったと思う。なんとか学童へ辿り着く。結果、私の弟が先に帰りつき迎えてくれ無事帰宅していた。
迎えてもらったことがない弟であったが引き渡してもらえ良かった。最後まで電話は つながらず、帰宅してはじめて家族の安全確認が出来た。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
とりあえず、大きい揺れがきたら何も出来ない。窓を開ける、電気消す、防災頭巾、避難靴 書類持つ。一人では無理。子どもを集める事すら場面によっては難しいかもしれない。実際に無理でした。どんなに真剣に避難訓練をしていてもその通りにはいかない。でも、していないよりは 地震が起きた時にどうすればいいかと言う引き出しが増え、その場で臨機応変に 動ける知恵が出てくると思う。避難の基本を元に、様々な場面(園庭あそび、室内での保育、散歩、午睡中、夕方保育など)で、どうするかを考えておくことも大事だと思う。
ここ近年、大きい地震が増え 実際の経験者も多い。備蓄、避難に対しても、本気で考えていくようになってきている。考えているより やってみると問題点も多く見つかってくる(保管場所一つにしても)。
私物は持って逃げないのが基本だと思うが、園内に戻れない可能性が高いので、個人的には、情報源、自身の避難のためにも、携帯とお財布(もしくは、お金を忍ばせておく)を、持って逃げることができたら良いと思う。
逃げるが先かもしれないが、余裕があるならば大人も子どもも+αの服を着せられたらとも思う。夜は冷えてくるので。
お迎えに来られない保護者もいた
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:5年以上~10年未満
お迎えに全然来られない保護者がいました。連絡もつかずにいると、その保護者の友人がお迎えに来てくださいました。当時、2歳の娘は未就園で家に祖母とおり、4歳の息子が同じ保育園に通っていたため、全園児が帰宅後一緒に帰るつもりでいましたが、自分の家族と連絡が取れず、娘と共に祖母が息子のお迎えに来てくれました。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
避難の際には、とにかく落ち着いて身を守ることを優先に。大きな地震は子どもも不安が強くなるので、自分が落ち着いて行動できるように、普段の訓練でも意識すると良いかもしれません。保育士間の声掛けも大事ですね。必死の手遊びで避難中に気を紛らわせる
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:10年以上
東日本大震災。0歳児を長時間避難させる(安全な場所に集めておく)ことが大変で、その頃子どもたちのお気に入りだった『山小屋一軒』の手遊びを必死で熱演し続けました。
保育中の子どものことだけでなく職員の家族(幼児、学童児等)のことも考慮して順次連絡を取るようにしたり、帰宅させるなど状況に応じて職員配置も考慮しました。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
「どうなるのか?」「どうしよう」ではなく「こうなるかもしれない」様々な状況を予測して早め早めに準備をしておくことが安心につながると思います。仕事でない保護者と連絡が取れなかった
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:10年以上
保護者に連絡をしたが、迎えになかなか来れず、子どもの引き渡しができなかった。両親ともに、仕事だと思っていたが、しごとではなかった。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
保護者の連絡先を普段から把握しておくこと。食料の確保が出来ず遠方から送ってもらうことに
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:10年以上
電車など交通の便がなくなり、歩いて家に帰らないといけない状態。その日は家には帰れず保育園にお泊まり。
保護者も歩いて園まで迎えのため、最後の子どもが迎えに来るまで園で待機(22時頃)
周りのスーパー、コンビニ、食料が買えるお店は全て空になり、遠方から郵送で食料を確保する。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
毎回真剣に訓練し、いつ誰がその場にいるか分からない為、自分が指示出来るように取り組むわが子の安全確認がなかなかできなかった
保育士/東日本大震災/当時の経験年数:10年以上
東日本大震災。都内の保育園に勤務中に地震に遭遇しました。我が子の安全確認がなかなかできなかった。学校などに電話は繋がらなく。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
日々の避難訓練で、常に具体的なことを想像して取り組む。色々な災害が起きているなかで、教訓を学べるのでニュース等にも耳を傾ける阪神・淡路大震災の体験談
養護施設職員/阪神・淡路大震災/当時の経験年数:1年以上~3年未満
朝に用意したパンを半分だけ食べて残すように指示して、みんな学校にも行かずに潰れなかった施設にいました。とにかく、今までにない酷い地域の状態に唖然とするしかありませんでした。他市から通っていた私は足が確保出来ずに自宅に帰れなくなりました。電話は数時間後にはもう、回線がいっぱいになってどこにも繋がらなくなりました。
母の言う通り、翌日からは山側周りでいつもよりも2倍の時間かけて帰りました。そこからは1週間に1度家に帰って、泊まり込む生活を始めました。
神大病院に物資が来るだろうと、中高生と職員が食料や水を調達に行ったり、数週間後には北区の個人宅の人がお風呂を貸してもらえるとボランティアから聞かされたら、施設からバンでピストン輸送して風呂に入れに行ったり、古い家屋からシラミなどが出て、駆除に苦労したりインフルエンザの予防接種が間に合わずにかかってしまったり、とても大変な生活を送りました。
高校生に至っては無事な学校からは期末試験を受けに来なさいと心無いことを言われたり、父親が行方不明だから探しに行ったきりなかなか出勤出来なかったりもありました。同級生や近所の人もなくなったり、20代では考えられないほどの経験をしたと今でも思っています。
もうひとつ凄かったのは、火災の激しかった長田区こら土砂崩れで施設が潰れて避難してきた施設の子も私の施設で再建まで預かっていました。その子たちはもっと可愛そうで夜中になると発狂して部屋を泣いて走り回るなどPTSDがありました。もう、母親替わりに独身でしたができる限りの愛情を注いで頑張りました。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
災害はお互い様なので、出勤できない人をバッシングしたりすることも間違っているし、できる人にどうしても比重がかかりがちになります。しかし、できる限りはボランティア精神がないといつもの仕事とは違ったスキルが必要となります。普段の避難訓練は適当に数を数えて一定の場所まで時間計って逃げるだけを当たり前とは思っていては行けないなと今では若い人を見て思います。
実際に少し大きい地震が起こっても上や周りに連絡したり相談しない。避難路確保しない。訓練ではしているのに、避難に必要な用意すら出してこようとしない。点呼しない、子どもを集めないなど…これは、まさか、自分が逃げなくてはいけない状況にないと勝手に判断してしまっています。
用意していてから、時間を経て何もなさそうですとなってから「何もありませんでした」なら、それでも良いと思います。ただ、それが反対だった場合はどうですか?それだけ危機感がないからあまりにも動かないので、いつも「あるかもしれない」という気持ちを持って災害の対応に当たって欲しいと思います。
大阪での慣れない地震に職員がパニック
保育士/大阪北部地震/当時の経験年数:1年以上~3年未満
出勤中職員との連絡不通
出社済み職員の帰路確保
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
初めて大きな地震を体験した職員は恐怖を感じ、取り乱していたことを踏まえ、想像を遥かに超えた際の子どもの安全確保をいかに保てるか。子ども自身が避難になれることも大事
保育士/地震/当時の経験年数:3年以上~5年未満
弱い地震だったので、発生時は子どもたちを部屋の真ん中(机など置いていないため)へ集めました。揺れがおさまってから火事などはないかなど確認し、普通に保育していました。保護者には、地震があったのもあり、子どもの様子を伝えました。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
避難用カバンの中に保護者の連絡先を書いた紙を入れていたり、オムツや水などを少しだけですが入れてあります。毎月避難訓練はあると思うが、毎月1回だけではなく、地震があった時には2回とあった方がいい。そうすることで避難時には子どもたちも対応できるようになるので、やっておくべきです。全職員が同じ対応ができること(避難時は部屋の真ん中に集まる、避難経路など)は大事だと思うので、それは共通認識としてしっかり話しておくべきだと思います。公立保育園ならではのジレンマ
保育士/地震/当時の経験年数:10年以上~
公立園で園長が市役所からの指示待ちで、必要な動きがすべて後ろ手となり、はがゆかった。調理職員を定時で返してしまい、各園で食事の確保の指示がでたときに用意がうまくできなかった。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
一人一人が防災意識を高め、時には自分達で判断しなければならないことをいつも心の片隅におくこと。日頃の積み重ねが大切なことを伝えたいです。その後立ち上げに関わった認可園では防災に力をいれています。自治体では毎年施設強化費があり、色々なものが購入できています。誰が司令塔になるのか課題が残る
保育士/大阪府北部地震/当時の経験年数:10年以上~
被害ほぼ無しだが、正職員が少なくパートさんが多く、子どもも順次登園。誰が司令塔となり、人数把握など課題有り。園から家まで距離があり、自分も身動きできなかった
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
何度も訓練、自分だけでも動けるように。防災用品備蓄の確保保育中の停電対応エピソード
突然電力がストップしてしまう停電も起こりやすい事故の1つです。ビル内にある保育園や夏場の停電は特に対策が求められます。保育士/停電/当時の経験年数:10年以上
停電。病院内の無認可保育園勤務です。院内9階に保育室があるため、避難が大変です。停電が起きたのは、真夏だったので、蒸し風呂状態の保育室でした。エレベーターも動かず、抱っこ紐の数も足りず、片手で抱っこし、片手で手を繋いで、階段を使って1階まで行きました。地震や火災が起きたら、もっと大変です。なので、病院には部屋の移動願いを提出していますが、なかなか進まない状態です。保護者は、院内の医師、看護師なので、保護者対応はスムーズでした。大変なのは、やはりエレベーターを使用出来ない状態の避難です。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
子どもたちの靴、防災頭巾は必ず着けさせること。着けられない時は必ず持ち出すこと。保育中の火事対応エピソード
自園が失火もとになったり、延焼によって発生することもある火事。煙などを吸わないようにするにはどうしたらいいかの訓練も行えるといいですね。避難場所が火元方面で方向で困った
保育士/火事/当時の経験年数:10年以上
(火災が)長引きそうだったので、2次避難場所をどこにするか(避難場所は火事のある方向だったし、公園だった。しかも冬)。どう保護者に周知するか。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
練習は大事。いろんな想定が必要だから、現状では無理でも頭を柔らかくして案を出すのは大事。情報収集は大事。午睡・食事時間帯の火災からの避難
保育士/火事/当時の経験年数:10年以上
1月末の寒い時期、12時過ぎだったので、乳児は午睡幼児は食事中だった。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
訓練の大切さ。指示を聞くことはもちろん大切だが、子供の命は自分が守るという意識。保育中の豪雨・豪雪・台風対応エピソード
地域によっては雨が降った場合に土砂崩れが起きやすい、交通機関がストップするなどのケースがあります。園自体が床下浸水したりと思わぬアクシデントがあったエピソードもいただきました。「状況を見ての判断」指示で混乱
保育士/台風・豪雨・洪水/当時の経験年数:1年以上~3年未満
台風当日に状況をみないと開校、閉校の判断をくだせないと本部から指示があったため、職員の出勤の有無や利用者さんへの連絡含め、とても大変でした。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
自然災害は全てを予想できないが、備えることはできるため、1番最悪の事態をいつでも想定して、シュミレーションを考えることが大切。そうする事で、いざとなった時に自分も慌てないで済む。豪雪だとお迎えまでに時間がかかる
保育士/豪雪/当時の経験年数:3年以上~5年未満
豪雪は迎えにこられるまで時間がかかった
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
冷静な判断。事前に防げることはしておく。ムリな登園は控えてもらう停電になり保護者との連絡が出来ず
保育士/台風・豪雨・停電/当時の経験年数:5年以上~10年未満
保護者との連絡が取れず安否確認が出来なかったこと。保育所が停電になった際迎えがきて全員が帰宅するまで待機していたが予備電源しか無いため子どもたちが不安になったり玩具で遊びにくかったりした
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
日頃からの避難訓練と停電時の対応、停電時の避難訓練はしておいた方がいいと感じた土砂災害を警戒して早めの対応を
保育士/豪雨/当時の経験年数:10年以上
園舎の裏山が土砂災害警戒地域になっているので大雨の時はお迎えをお願いしたり休園になったりします。
"保育中に雨が強まり、お迎えをお願いしました。ほとんどの方がすぐに対応してくれましたが、中には大した事ないのに行かなくちゃいけないのか?と渋る方もいました。入園説明会の時にそういう場合の対応について、理解して頂けるように話をするようにしました。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
結果何も起こらなかった事で数件のクレームもありましたが(お迎えに行って損した的な…)早めに対応できたことは良かったと思っています。一軒一軒の電話で連絡をとった
保育士/豪雪/当時の経験年数:10年以上
2014年の大雪では110センチ超えの積雪であった。連絡網や一斉メール等の整備がない園だったので、各家庭への連絡を一軒一軒電話でした。また、雪かきに行くため徒歩で2時間近くかけて園に行った。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
私自身災害マニュアルについての勉強不足であった上、毎月の避難訓練も形式的な園であった。子ども達の命を守る観点から、勤務園のマニュアルをきちんと把握し、避難訓練後の振り返りを同僚としながらより安全な避難誘導ができるように課題意識を持つと良いと思います。漏電に対する知識などの必要性を痛感
保育士/台風/当時の経験年数:10年以上
家電製品復旧のための漏電、感電に対する安全性
現状回復のための労働力不足
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
いつ何時、起きるかわからない状況をみんなで意識認識しておくこと。一人でも油断や意識低下、怠慢などがあればそれが大きな被害につながることを認識しておくこと。職員一人ひとりにこどもたちの、命の保証が委ねられていることを認識することICTを使い連絡をスムーズに
保育士/台風/当時の経験年数:10年以上
保育中、暴風雨警報が発令されました。保護者にコドモンにて連絡し降園して頂きました。(既読にならなかった保護者には電話連絡)独身時代の園は電話連絡しました。保護者と連絡が取れなかったり、勤務先が遠く、お迎えまで時間が掛かった時の対応。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
避難訓練は、色々なパターン(時間帯・・早朝や夕方等の配置人数の変更時等)を想定して経験する。子どもの動きより、保育士の動き方や対応力の訓練が重要だから。床下浸水で垂直避難
保育士/豪雨/当時の経験年数:5年以上~10年未満
豪雨は、保育所が床下浸水し、停電。子どもたちは、2階に避難し、とりあえずの食事を取らせて、保護者が迎えにくるのを待った。豪雨の時、停電したので、出来上がっていたご飯におかずをのせて、食べさせた。保護者に連絡を入れて、迎えにくるのを待った。
ご経験を踏まえ、今でも心に残っていること、教訓にしていること、後輩保育士に伝えたいことを教えてください。
突然のことなので、慌ててしまいますが、とにかく落ち着いて、子どもたちを守ることを考えて行動することが一番です。焦らないこと。まわりの職員に声かけ。連携がとれるようにする。体験談をもとに災害対策をもう一度見直そう
寄せられたエピソードからは、どんな困難な状況の中でも子どもたちの命や安全を守ろうとする鬼気迫る保育者の方々の様子がうかがえました。ご紹介した内容の時から今を比較すると、誰しもがスマホを持ち、インターネットによる児童管理が整備され、防災の意識も当時より高まっているでしょう。一方で多国籍化が進み、発達支援も広がり、災害対策にも多様性が求められるようにもなってきました。
今回寄せられたエピソードから、避難訓練や災害対策のヒントになる項目がいくつか見られました。
●さまざまなシチュエーションでの避難訓練
午睡中、食事中、バスを待っている時間帯など園児の数や保育者の数がそろっていない時なども想定して訓練のメニューを検討しましょう。
●パニックを起こしやすい子どもへの対応
突然の大きな音にびっくりしてしまう、急な変化に対応が難しいなど発達に特性を持つ子どもに対してどのような災害対策ができるかを専門家と検討しましょう。
●保護者と連絡がつかないシチュエーションの想定
保育ICTシステムを導入していると欠席連絡やおたよりのほとんどがインターネット上でのやりとりとなり、停電やインターネットサービスの停止によって全く連絡がつかなくなることも。伝言ダイヤルや連絡がつかなかった場合のお迎えについて園と保護者で共有しておくことが大切です。
また、最近では首都圏直下型地震発生の場合は、むやみな帰宅を避ける傾向にあります。その際、保護者のお迎えが日をまたぐことも考えられますので、園に残って子どもたちを預かるのは誰が担当するのか、家族がいる保育者は帰宅できるのかについて検討しておくことが望まれます。
●停電・インターネットが不通のシチュエーションの想定
児童台帳や緊急連絡先は、保育ICTシステムで管理されていることが多くなってきましたが、いざ避難した先で閲覧できなければ意味がありません。印刷したものはどこに置いておくのか、毎日同じ場所に置いておく、情報が更新されたときにどのように対応するのかについても検討が必要です。当日、緊急時の引き渡しカードに登録のない人が迎えに来た場合、どうやって身元確認をするのかについても改めて確認しましょう。最近ではマイナンバーカードや免許証といった一般的な身分確認の証明書で事前の登録があれば引き取りをするように変更している園も増えてきました。
●年齢やアレルギーに沿った非常食・備蓄の確認を
寄せられたエピソードにもありましたが、大規模な災害の場合食事の確保が大きな問題となります。離乳食、アレルギー食、宗教対応食など栄養士や調理師が不在でも保育者が対応できる知識とスキルが必要となります。
ご紹介した内容は、保育者だけではなく、ぜひ保護者や近隣、自治体を巻き込んだ対応が必要です。何もないに越したことはないですが、何かあったときに十分な準備と対策で子どもたちの命、そして、なにより保育者が安心して避難できるようこちらでご紹介したエピソードが役に立てば幸いです。
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